震災を体験して
はじめに、熊本県ならびに大分県を震源とする地震により、亡くなられた方々のご冥福を
お祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族の方々に対しまして、
心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。
今日は、私が体験したこの地震について書かせて頂きます。
長文になってしまいましたので興味がある方はお読み下さい。
仲間との二年に一度の旅行で4/15~17の2泊3日で九州旅行へ行きました。
場所は大分県の由布院と福岡県の博多を1泊ずつです。
前日の熊本県の地震が気になってはいましたが、福岡空港が通常運行していることもあるので、当分は余震のみだろう・・・という気象庁と同じ予測で決行ました。
始発の羽田発で福岡へ入り、レンタカーを借りて大分自動車道で別府を経由して由布院へ入りました。
その日は天気もよく、大分自動車どうから見える由布岳を右手に見ながら別府湾SAでは眼下に広がる別府湾を眺め明礬温泉で泥湯に入り由布院に入ったのは昼過ぎでした。
大型の施設や派手な看板等は全くなく、比較的小規模の旅館が自然風景に溶け込むように立ち並んでいて統一感のある街並みがとても印象がよく、国内外を問わずとても人気な理由が分かりました。
陽も傾きはじまた頃、由布院の裏路地を抜けて金鱗湖まで向いました。
金鱗湖まで続く川沿いは春真っ只中を感じさせる若い緑と西日で水面が夕日に染められ、由布院での散策は日常というものを忘れさせてくれました。
宿では、やわらかい温泉に美味しい土地のごはん。
気兼ねしない仲間と過ごす時間はとても贅沢な時間でした。
私たちは早朝のフライトだったこともあって、23:00ごろに就寝しました。
眠りについて2時間が過ぎたことろでしょうか。
ものすごい音と横揺れで目を覚ましました。
正直、今まで体験した地震をはるかに越える横揺れでしたが。
どこか揺れがおさまる!という考えがあり、身を守ることはしませんでしたが、揺れはおさまるどころかさらに強くなり。
もの凄い縦揺れでドーンっという音と同時に私は吹っ飛ばされ辺りは真っ暗になりました。
その時の音は今でも忘れはしません。
その直後、非常灯が点灯し部屋の中を見渡してみると、テーブルに置かれた物が落ちていました。
一瞬の出来事だったせいか同室の後輩は唖然としおり、声をかけるまでは放心状態でした。
後輩と自分の怪我のないことを確認し後輩へ荷物をまとめるように指示して、隣の部屋にいるメンバーのところへ向かうと、同じようにみんな唖然としていました。
そして、ここでも怪我の無いことを確認し荷物をまとめるように指示をし私も非難の準備をすることにしました。
仲間の支度が出来るまでの間、廊下へ出てみると、この地震の揺れの強さを改めて実感しました。
物は飛散し築90年の宿の外壁はひびが入り玄関の大きな扉は全て外れて落ちていました。
そして、となりの部屋の女性3人組のお客さんが不安そうに出てきたので、荷物をまとめて非難するように告げて全員で近くの公民館へ避難しました。
数分歩いたところの公民館へ到着したのは2:00過ぎでしたでしょうか。
まだ、人気は少なく私たちの宿のお客さんと消防団の方のみだったと思います。
時間が経つにつれ非難してくる人が増えてきました。
この頃でしょうか。
消防団の方や地元の方とテントの設営をして非難してくる人を迎え入れる用意をしはじめたのは。
深夜の由布院は九州とは言え、寒かったです。
数少ない毛布や布団は、浴衣姿で非難してきた人やお年寄り。そして小さなお子さんをつれた家族を優先してもらい枕カバー敷きパッド各2枚を使って男5人で寒さを凌いだのを思い出します。
そして、周りを見渡すとあの揺れの恐怖とこうして無事に非難できたことの安堵でしょうか、同じ宿の女性の方が泣いていました。
怖かったんでしょうね。
私たち男性でも怖かったです。
正直、あの揺れを感じたとき死を覚悟しました。
多分、メンバー全員が家族の顔が浮かんだと思います。
はじめの揺れから3時間が経ったころでしょうか、宿の方が私たちが乗ってきたレンタカーを用意してくれたのでレンタカーで朝が来るのを待ちました。
車の中ではこの地震のニュースを見て被害の大きさについて知ることができました。
しかし、熊本の情報が多く由布院の情報は少なかったと思います。
そのうち車内がエアコンで暖かくなりみんな寝てしまい朝を迎えました。
朝になり宿のかたから由布院小学校に対策本部があり、そこに行けば博多までの交通情報などがあるはず。というアドバイスを受け宿を後にする前に自分たちが今出来る片づけを少しだけして宿を後にしました。
本来なら、復興支援をするべきだったのかもしれませんが、自分たちが長く残ることで宿の方や地元の方に大きな負担となってしまうようではいけない。と判断しました。
あの時はまだ時期ではなかったのかもしれませんが、必ず手が必要になる時が来ますし、何らかの形で必ず復興支援をしていきたいと強く思いました。
由布院小学校へ行くと既に自衛隊や消防のみなさんが召集されており、校舎の中は教室から廊下までたくさん方が非難していました。
対策本部で消防の方から交通情報をもらい自衛隊の方から炊き出しを頂くことができました。
未明から屋外で過ごし冷えきった身体に梅干つきの温かいごはんとお味噌汁を口にしたとき、心の中に張り詰めた何かが緩んだような感覚がありました。
自分たちのような観光客はここを離れてしまえば援助の手は必要なくなります。
だから長居せずに移動するべきだと思いましたが支援してくれる方々に甘えてしまいました。
申し訳ないという思いの反面、安心することができました。
そして、被災地で感じれた日本人の美徳でもある『ひとを気遣う精神』を実感することができ日本人の素晴らしさを身をもって感じました。
こうして私たちはたくさんの地元の方や自衛隊・消防の方の協力のもと地元である長野県へ帰ってくることができました。
次は私たちの出番です。
現地でお世話をしてくれた多くの地元の方のために何ができるか・・・・しっかり判断して復興支援をしていきたいと思います。
九州の被災されたみなさん。
日本国民・・・いや世界の全人類は手をとりあいみなさんを復興へのお手伝いを進めていきます。
今はまだ希望をもてないかもしれませんが・・・どうかこころの中にある希望の火だけは消さないでいて下さい。
みなさんの後ろには全世界の人々がついていますから。
最後にこれを読んでくれた方へ
世界各国からの支援がなされていますが、被災地には長期的な支援が必要です。
みなさんの支援は被災された多くの方を笑顔にしてくれ、決して癒えることのない災害の記憶を少しずつ軽めてくれるはずです。
乱雑な文章で誤字脱字が多くて読み難かったと思います。
最後まで読んで頂きまして本当にありがとうございました。
今できることを精一杯やることが被災を受けなかった者の役目だと私は思います。
0コメント